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【ルポ】 ヨルダン川西岸でも厳しい日常 イスラエル軍がロックダウンを強化 - BBC.com

ジョエル・ガンター(パレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区ヘブロン)

パレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区のヘブロン市H2地区の自宅屋上に立つアリージ・ジャバリさん

ファワズ・カフィシャさんは玄関の扉を数センチだけ開き、その隙間から頭を出して、太陽の光に目をそばめた。外の通りはほとんどひとけがなかった。カフィシャさんの家の反対側にデッキチェアを置いて座り、家のほうを見ているイスラエル兵を除いて。

カフィシャさんの目が光に慣れ、私たちが歩いてくるのに気づく前に、イスラエル兵は椅子から飛び起きた。ライフルを半分持ち上げ、カフィシャさんに屋内に戻るよう命じた。

中東料理ファラフェルのシェフで52歳のカフィシャさんはジェスチャーで、私たちに急ぐよう伝えた。

私たちが屋内に入ると、「今では扉を開けようとするたびにこうです」とカフィシャさんは話した。

カフィシャさんは、イスラエルが占領するパレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区のヘブロンで生まれ育った。現在は「H2」と呼ばれる、人口密度が高く、厳重に防御された地区で暮らしている。H2には3万9000人のパレスチナ人と約900人のイスラエル入植者が暮らしているが、ここの入植者たちは占領地域の中でも最も過激だと考えられている。H2の一部区域では、パレスチナ人とイスラエル人がわずか数メートルしか離れずに暮らしており、カメラやおり、検問所、コンクリートの壁、そして有刺鉄線に囲まれている。

10月7日にガザ地区のイスラム組織ハマスがイスラエルを襲撃して以来、ここH2のパレスチナ人居住地区11区画に住む約750世帯が、過去20年以上で最も厳しいロックダウン下での生活を強いられている。

H2の住民のほとんどはパレスチナ人だが、この地区はイスラエル軍が全面的に支配している。そしてここ数週間、イスラエル軍はパレスチナ住民に銃口を突きつけ、強制的に家に閉じ込めている。

カフィシャさんと9人の家族は、ほとんど家から出ていないという。リスクは負いたくないのだと、カフィシャさんは話した。

「ここに着いた時に見たでしょう」

「玄関の扉は開けられないし、窓から外を見ることもできない。私たちには自由がない。恐怖の中で暮らしています」

ファワズ・カフィシャさんの家の前を通り過ぎるイスラエル兵たち。この通りでは、パレスチナ人は外出を許可されていない

カフィシャさんの家は、かつてヘブロンで最も栄えた市場のあったシュハダ通りに面している。1994年、この近くのモスク(イスラム教の礼拝所)で、ユダヤ人入植者がムスリム(イスラム教徒)29人を殺害した。暴動が起こり、イスラエル軍の弾圧が始まった。イスラエルはパレスチナ人が経営する店舗を強制的に閉鎖し、シュハダ通りに面したパレスチナ住民の家の玄関ドアを溶接して開かないようにした。

これ以降、シュハダ通り周辺のパレスチナ人は、どこに、いつ、どうやって行くのかを制限されながら暮らしてきた。制限の厳しさは時によって変わり、イスラエルとパレスチナの紛争が再燃するたびにロックダウンに発展した。

しかしBBCが取材した人の中には、今回のロックダウンは前例のない厳しさだと話す住民もいた。

61歳のズリーカ・モフタセブさんは、カフィシャさんの家から数十メートル離れたところに住んでいる。元ツアーガイドで翻訳者のモフタセブさんは家の屋上から、若いイスラエル人入植者が独り言を叫びながらシュハダ通りをゆっくりと下っていくのを見下ろしていた。

モフタセブさんは60余年の人生をずっと、この周辺で過ごしてきたという。シュハダ通りの向こう側数メートルの場所には、モフタセブさんの家族が10世代にわたって埋葬されているヘブロン墓地がある。かつては、通りを歩いて渡って直接墓地に行くことができた。今では自動車を使って1時間かけないとたどりつけないという。

若いイスラエル人が、溶接された玄関の前を通り過ぎるのを見ながら、モフタセブさんは頭を振った。「入植者たちは行きたいとこに行けます。彼らは神に選ばれた人々なんです」

自宅のバルコニーに立つズリーカ・モフタセブさん。シュハダ通りのパレスチナ人の家のバルコニーは、石を防ぐためのおりが付けられている

モフタセブさんはヘブロンでの生活でさまざまな経験をした。しかしこの40日間はその中でも特に厳しいものだと言う。ハマスがイスラエルを襲撃し、約1200人のイスラエル人を殺したとされてから数時間後、イスラエル軍はH2のパレスチナ住民に対し、外出を禁止するメッセージを送った。イスラエル兵が人々に銃を突きつけ、通りから追い払った。「最初の2週間は地獄だった」と、モフタセブさんは振り返った。

2週間後にはH2の外出禁止令は若干緩和され、パレスチナ人は日曜日と火曜日、木曜日の特定の時間だけは家を離れることが許された。しかし先週の木曜日、ちょうどモフタセブさんが我々と会う準備をしている時に、ヘブロン出身のパレスチナ人戦闘員3人が、ヨルダン川西岸地区とエルサレムを分けている検問所を襲った。この事件でイスラエル兵1人が殺され、5人がけがをした。モフタセブさんはすぐに、この襲撃がH2への弾圧を長期化・厳格化させるだろうと思ったという。

「みんながイスラエルには自衛権があるという。それはいい。それには反対しない。でも私たちパレスチナ人はどうなのか?」と、モフタセブさんは話した。

「私たちは何度も攻撃され、殺され、家から追い出されてきた。パレスチナ人が攻撃された時の自衛権はどこにあるのか」

H2に続く検問所前でサッカーをするパレスチナ人の子供たち。イスラエル軍はこの地域の出入りを制限している

H2は1997年、当時のパレスチナ解放機構(PLO)とイスラエルの合意でヘブロンが二分された時に生まれた。ヘブロンの8割を占めるH1の住民はパレスチナ人のみで、パレスチナ自治政府が管理している。残りの2割に当たるH2も、住民はほぼパレスチナ人だが、イスラエル軍が管理している。H2では、シュハダ通りとイブラヒミ・モスクの周辺の警戒が最も厳しく、検問所や警備隊の詰め所がある。この場所は何十年もの間、イスラエルとパレスチナ双方による緊張、暴力、テロ攻撃の現場となってきた。

病院の警備員をしているムハンマド・モフタセブさん(30)は、モスクの反対側にある家の屋根に座り、「ここは閉鎖空間の中の閉鎖空間だ」と話した。

「私たちは検問所に完全に取り囲まれています。良い日であっても車を運転できません。パレスチナのナンバープレートのついた車は入って来れないのです。何かを家に持ち込もうとしたら、500メートル先の検問所から運ばなければいけない。結婚した時に寝室に置く家具を買いそろえましたが、検問所の向こう側で全部分解して回転式ゲートを通り抜け、こちら側で組み立て直さなければいけなかった」

これは良い日の話だ。10月7日に以降は、通りを歩く自由すらなくなった。我々がモフタセブさんの家に着いた時、ファワズ・カフィシャさんの時と全く同じように、兵士が玄関に素早く近づいて、モフタセブさんに屋内に戻るよう命令していた。

ムハンマド・モフタセブさんはH2内の自宅の屋上で、「ここは閉鎖空間の中の閉鎖空間だ」と話した

モフタセブさんは屋根の上で、紙たばこを巻きながら人のいない通りを見下ろした。H2の学校は全て閉鎖されたため、彼の4人の子供のうち3人は学校に行っていない。モフタセブさん自身も40日にわたって家にとどまり、仕事に行っていない。幸運なことに、雇い主は事情を理解して給与を払ってくれているという。

しかし誰もが同じ待遇ではない。ファラフェルのシェフであるカフィシャさんはロックダウン開始以降、仕事上の責任を果たせていない。1週間に3日しか外出できず、外出できる日でも、割り当てられた時間は通勤の時間と合わないのだ。モフタセブさんの場合とは違い、カフィシャさんの雇用主は理解のある人ではなかった。「こういう仕事では、働かざるもの食うべからず、なんです」と、カフィシャさんは話した。

カフィシャさんは家族に食べ物を買うために、友人から何度か借金をした。しかし選択肢も尽きてきている。居間に座り、窓に背を向けながら、カフィシャさんはこう話した。「使ったものは何にも代えられない」、「だから沈んでいくしかない」。

H2にはイスラエルの検問所や部隊の詰め所、防御壁などが100カ所以上置かれている

この翌朝、パレスチナ人戦闘員によるイスラエル兵襲撃事件がまた起きた。今度はヘブロン市内だった。襲撃者が死んだだけだったが、事件から数時間後には再び、メッセージアプリ「ワッツアップ」でイスラエル軍からシュハダ通りのパレスチナ住民に通達があった。

「シュハダ通りの住民への通知。1週間の外出を禁じる」。また、H2を出た場合、1週間過ぎるまで戻って来られないとも書いてあった。

イスラエルの人権擁護団体「B'Tselem」で広報を務めるドロル・サドットさんは、H2のロックダウンは「イスラエルがヨルダン川西岸地区でどのように集団的懲罰を実施しているかの露骨な例」だと話した。

「ヘブロンのパレスチナ人は、自分たちのやっていないことの代償を払わされています。人々は働けず、子供たちは学校に行けず、水や食べ物の調達にも苦労しています。これは集団的懲罰であり、国際法に違反しています」

イスラエル軍はBBCの取材に対し、ヨルダン川西岸地区の部隊は「その地域のすべての住民に安全を提供するために、状況判断に基づいて」活動していると、書面で回答した。

「そのためヘブロンのさまざまな地区に検問所が置かれ、移動の監視に努めている」

H2に入る検問所の中には、このように厳重な防御態勢を敷いているところもある。パレスチナ住民は、検問所で嫌がらせを受けることもあると語った(ターニャ・ハブジュージャ撮影)

H2内でもイスラエルの強硬派が多いキルヤット・アルバ入植地に、極右として知られるイスラエルのイタマル・ベン・グヴィル国家安全保障相が住んでいる。同相は10月7日以降、ヨルダン川西岸地区の入植者に数千丁のライフルを配っている。16日には、イスラエルは同地区でもガザ地区と同じアプローチを取るべきだと発言。「ガザ地区と同じように、封じ込めは我々の目の前で吹き飛ぶだろう」と述べた。

ハマスが運営するガザ地区の保健省によると、イスラエル軍の攻撃で20日までに1万3000人以上が殺害されている。また、パレスチナ自治政府の保健省は、ヨルダン川西岸地区でも入植者や軍との衝突により、200人以上のパレスチナ人が殺されたと発表している。

アリージ・ジャバリさんは15日、ベン・グヴィル国家安全保障相の家から数百メートルのところにあるH2内の自宅で、女性を数人集めて編み物サークルを開催した。この日、通りに出てはいけないとしたイスラエルの命令に反抗するためだ。だが、ロックダウンが始まってから集会が成功したのはこれがたった2回目で、集まったのはわずか8人だった。これまで1週間に1度、モスクで開かれていた集会には約50人が集まっていた。参加者たちは、巧みにここにやってきた。アリージさんのいとこのフダ・ジャバリさんはにやりと笑いながら、「脇道や建物の間をこっそり通って来たんです」と言った。

女性たちは、この長いロックダウンの中でイスラエル兵を観察し、兵士らが見ていないときに移動することを学んだ。ある区域では正面玄関から入り、別の区域では裏口から出るなど、互いの家を使ってH2内の検問所を避けている。アリージさんの母サミーラさんの家は、ベン・グヴィル国家安全保障相の家の裏手にある。「ふだん、50世帯が私の家を通り抜けて移動します」と、サミールさんは言った。

自宅の窓から自由に行き来できない通りを眺めるアリージ・ジャバリさん

アリージさんは私たちを自宅の屋上へと連れて行き、そこからの眺めを見せてくれた。イスラエル軍の基地や、警備員の詰め所などが見えた。眼下では、イスラエル人入植者が家の前の通りを歩いていた。この通りを、アリージさんはもう自由には行き来できない。

アリージさんは10月7日以降、ビデオカメラを持ってこの屋上に上り、兵士の映像を撮影し、人権擁護団体「B'Tselem」に送っている。その結果、11日にイスラエル兵が自宅に押し入ってきたとアリージさんは話した。「私の記者証を壊して、もう何も映像を撮るな、何もソーシャルメディアに投稿するなと警告しました」。

また、金曜日と土曜日に屋上に上ったり、窓から外を見ることを禁じた。この2日はイスラエル入植者がこの道を通って、入植地からシュハダ通り近くのユダヤ教の聖地に行くのだという。

イスラエル軍はBBCに対し、アリージさんが説明した出来事を認識しており、事態を把握するために、関与した特定の兵士を追跡調査していると述べた。報道官は、「この出来事を深刻にとらえている」とした。

だがアリージさんにとって、これは特別なことではなかった。「何かが起こるたびに、イスラエルは私たちにもっと制限を加えてくる」と、アリージさんは話した。「私たちを分断し、この地域を小さく分割し、私たちに去るよう圧力をかけるのが目的なのです」。

自宅の屋上の手すりを背にして、アリージさんはH2を眺めていた。「私はこの地域を不動の要塞と呼んでいます」。そしてビデオカメラを開き、道路沿いにあるイスラエル軍の詰め所の方へと向けた。

取材協力:ムアス・アル=カティブ、写真:ジョエル・ガンター

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